発達障害だけど人生を謳歌したい!
どこに行ってもつまづく事の多い人生で、いい加減うんざりしているけれど、同じく女性で発達障害だけど出世してバリバリ仕事をしている人も、主婦暮らしをエンジョイしている人もいる。うーん、どこが違うんだろう。
何人か会ってみて、あるいは話した事を思い出したりしながらつらつらと考えています。共通するのはみんなワガママなんだけど、嫌な感じがしないって事。これは大事な事に気がついたかも!?
そして、家族からいろんな支援をうけている。金銭的な事だけじゃなく、チャレンジしたいことを応援してくれたり、特性を「面白い」ってほめてもらっていたり、忘れ物を届けてもらってりなど出来ないことをフォローしてもらっていたり。生活や子供の面倒をみてくれたり、親と一緒に事業をやっている人もいた。
うーん、うらやましい!
この時は、うらやましいなあ、で止まっていたのだけど、先日の「#ひとり四半期報告会」の「しょうぶ学園」の話を聞いていたときに、このエピソードとつながった。
「出来ないことを出来るようにする」じゃなく「出来る事をやる」事からはじめよう、その結果さまざまな障害をもった人が次々にすばらしいアートを生み出している、という話だった。
障害があって人生を謳歌している人は、まず自分自身が何者であるかを理解して、それから社会とどうやって関わるかを考えているんじゃなかろうか。
自分に出来る事、出来ない事が分かった上で社会とつながると、お互いベストになる案を見つけられるし、無理な要求があっても「自分に出来ないことをしてくれている」と敬意を払って別の案を出すことができる。なのでワガママなんだけど嫌な感じがしない、という位置に居れてるんじゃないかと思う。
発達障害だけど人生を謳歌している人と会ってみてそう思った。まず自分自身の性質をよく理解して、それからどうやって社会と関わるかを考えている。
— ろば耳@ADHD (@robamimim) February 2, 2019
社会からみてどんなにおかしくっても自分自身がぶれていない。できない事はできない。できる事はできる。天才じゃなくてもいい。
自分に出来る事、出来ない事が分かる前に社会とつながってしまうと、無理をして社会の要請に答えるいい子ちゃんになってしまう。それでも人生80年やっていけるならいいけれど、破綻してしまったのが私なんだと思う。
なので、何より先にアイデンティティ(自己同一性)の確立が必要なんだと思う。自己同一性 - Wikipedia によると、
青年期は、「自分は何者か」「自分はどんな人生を歩みたいか」「自分はどんな仕事がしたいのか」「自分の趣味は何か」「自分はどうして生きているのか」といった問いを通して、自分自身を形成していく時期である。そして、「これこそが本当の自分だ」といった実感のことを自我同一性と呼ぶ。
自我同一性がうまく達成されないと、「自分が何者なのか、何をしたいのかわからない」という同一性拡散の危機に陥る。同一性拡散の表れとして、エリクソンは、対人的かかわりの失調(対人不安)、否定的同一性の選択(非行)、選択の回避と麻痺(アパシー)などをあげている。またこの時期は精神病や神経症が発症する頃として知られており、同一性拡散の結果として、これらの病理が表面に出てくる事もある。
そうそう!これこれ、これだよ!いまかゆいとこに手がとどきました!!!
今、親や支援機関と距離を置きたいのは「こうあるべき」を受け入れる事を求められてしまうから。無理をして一時的に「こうあるべき」が出来たとしても、それはゴールじゃない。まず「出来ること」からはじめたい。出来ない要求には、敬意をもっていなせるようになりたい。ワガママだけど嫌じゃない人物になりたい。
しょうぶ学園のお世話になれたらいいなと思う。四六時中作ることに夢中になっていたい。鹿児島にあるそうだから、いつか行って入所できるか聞いてみたい。私以上につらい思いをしている友達をそこに連れていきたい。障害者らしく生活保護をもらい薬を飲み家で何もせず大人しくしている。余計なお世話かもしんないけど、それは人間の尊厳をひどく損なっているように思う。
私もどうにかして、人生を謳歌できるようになりたいものだ。