続きが気になる、〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

1939年生まれの脳科学者、マイケル・S・ガザニガ先生の授業を本にしたものです。

「私」は脳のどこかにあるにちがいない

と研究して、しつくして、その結果、「私」は私の集合体が勝手気ままに振る舞った結果らしい・・・という何ともSF的な結論で、しかも「続く!」んです。科学だから。うーん、続きがきになる!

 

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

 

 

 

それにしても昔の脳科学のえげつなさってすごいです。

脳の働きを調べるために、事故で脳を損傷した人を追い掛けたり、切断したり電気を流して反応を見たり・・・背中がぞくぞくします。そうやって右脳・左脳の機能を調べていくんですね。。。ハンニバル・レクターになったみたいな気分です。

 

そんな中、右脳と左脳のつながりをチョキンと切る手術が行われます。この人の右側を隠して左側にモノを見せたり触らせたりして、隠した右側から何を見たか触ったかを聞くと「何もない」と答える。右と左の連携ができないと片側で起こったことがわからない。

 

ところが、言葉による質問ではなく、モノがあったら押すボタンを置いておくと、しっかり押されている。その時、なぜ左にモノがあると答えたかを聞くと、一瞬でいかにもありそうなストーリーが口から出てくるのだそうです。

 

脳は一部を見てつじつまの合うストーリーをひねりだしていた!

つまり、現実をありのままに見ているのではなく、適当に材料をピックアップしてそれらをうまく説明するストーリーをひねり出していた訳です。

(これは多分、現実雨ありのままに見るとものすごく時間がかかって、サバンナだと生きていけないからじゃないかな。かいつまんで危なそうなのを自動判定ならめちゃ早くできる。)

 

驚きですよね・・・でも確かに。二週間の授業を一冊の本にしてそれを2、3時間でさらっと読んでわかった気になっている「わたし」もこの機能をフル活用しているわけです。この感想もピックアップした情報から生成されたストーリーなのでしょう。

 

材料のピックアップ具合とどんなストーリーを生成するかは、文化によって異なるそうです。同じものを見ても東洋人と西洋人では違う解釈をするケースがたくさん見つかっています。

 

何となく、認知の違いが発達障害の生きづらさの元だと思っているのですが、同じ文化の人と接触しないと養えない面もある・・・という実感を裏付けられた感じがしました。

 

深いところに刻まれたもの

でも文化だけではなく、もっと深いところに刻まれているものもあって。例えば何千万年も天敵を見たとこがないオーストラリアのワラビーに蛇のぬいぐるみを見せるとちゃんと怖がって逃げるそうです。可愛すぎー

 

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www.epochtimes.jp

 

良いか悪いかを外側から決められるとかえって危険?

怖いのが、不安を解消するために、抗不安薬を投与すると本当に危ない事が起こっても不安じゃないと思って危ないことを平気でしてしまう、、、。それだけではなく、怖いと思ってはいけない、正しいのはこうなんだと理屈で抑えつづけていると、本当に危険にさらされたときに体が動かなくなるとか。よかれと思って強制的にがんばらせても、かえって損するみたいですね。。。

 

あの有名なトロッコ問題

では何がいいか悪いかを判断しているかというと。道徳をジャッジする機能があるそうです。1960年代によくでた命題に(こういう歴史がでてくるのが、年寄りの話の面白いところですよね!)トロッコ問題があります。暴走するトロッコ、右にいけば5人死ぬ、左にいけば1人死ぬ、どっちを選ぶ?というあれです。

 

この時、単にスイッチを押すだけならほとんどの人が迷いなく左の1人を選ぶのですが、スイッチじゃなく誰かを突き落とすとか・・・直接手を下す場合は、1人を突き落とさず右の5人を死なせてしまうのだそうです。その答えを出すにもめちゃくちゃ悩む。

 

その身近な1人を選ぶモジュールが脳にあるのがわかったのがすごい。そしてここがぶっ壊れていると、スパッと1人を殺し5人を救うのだそうです。はぁ。。。このモジュールがなくても学習できれば、みんなが選ぶ方を選ぶようになれる。学習できなければ・・・なじまなければ・・・生きづらいだろうなあ・・・。

 

罰を与えるって何の意味?

最終章は、罰を与えるって意味があるの?という問いでした。今話題になっていますよね。この章にも罰を与えてもそれが何の意味か分からない人の例がでてきました。しかしこの人にとって意味がなくても被害感情はスッキリする。そのために罰を与える、、、人の心は実に理不尽なもので出来ている証拠と言えるのではと思いました。

 

ともあれ、罰が意味をなさないケースが知られてきたことで、MRIなどの脳の検査が裁判の証拠として使われつつありますが、著者はこれに反対していました。脳はとても個性的で、誰かの脳活性と同じに見えてもぜんぜん違う事がざらにあるのだそうです。

 

そんなわけで、人間の意識というものは、一貫性があるように見せかけているけれど、実は無数の意思決定モジュールの寄せ集めだったという話でした。そうしていま、SFを読んだ気分になっています。