発達障害だから成功したした人の方が、発達障害だから苦しんでいる人より多いように思う。だとしたら問題は、、、
新幹線事件からつらつら考えている。
容疑者が自閉症だと報道されて、またかって思う。
自分と違うと安心したい。レッテルを貼って追い出したい。
それの何が問題か。この記事から考えてみました。
周囲の「みんな」と個人が軋轢を起こした場合、周囲の「みんな」には「障害」がなく、個人に「障害」がある。
問題が起こった時に、「みんな」と合わせられない人を「障害」とするなら
ブラック企業に適応できなかった人も「障害」になるし
DV加害者の言う事を実現できない被害者も「障害」になるし
セクハラを上手にかわせない人も「障害」になるし
めちゃくちゃ乱暴な定義じゃあないかと思う。
一方で、発達障害だから成功した人も大勢いるわけで、この人たちにとって「発達障害」は単に人より足が速いとか、目がいいとか悪いとか、それ位のものでしかない。
ほんとの所、発達障害だから苦しんでいる人より、幸せになっている人の方が多いんじゃないかと思っている。私が直接知っている人だけでも、企業で出世したり、行列のできる人気店だったり、大学の先生になっていたり・・・枚挙にいとまがないくらい、たくさんいる。
そういう人はわざわざ病院で診察をうけたりしない。だから発達障害としてカウントされていないのだ。
例えばこの人たちはどうだろう。
発達障害だから成功したようなもの。そう公言している人の生育歴をみていくと、その特性を愛され受け入れられている事がわかる。ということは、発達障害はその人を受け入れがたく思う、環境の問題と言えるのではないだろうか。
どんな人だって、毎日、右を向いても左を向いても殴られる、そんな環境にいたらおかしくなるんじゃないだろうか。
ごく普通の定型発達した人が、周囲の「みんな」と軋轢を起こし、排除された場合も100%、本人の問題だと言っていいのだろうか。
・・・
どこかに。私の特性を活かせる環境を作る事、見つけ出す事がいまの目標かな。
発達障害のおかげで幸せになった人ほど恵まれてはいなかったけど、
自殺するほど絶望はしなかったし、虐殺するほどふっきれもしなかった。
ただ,一番辛かった時期に、自殺したい気持ちがあったのは確かだ。
どうせ死ぬなら、自分を苦しめた全てを道連れにしたいと思っていた。
私も、事件を起こした人たちと、紙一重であったと思うのだ。